沢井慶太
書きおろし短編小説

 

『ノボルの人形』  全八章から成る悲喜劇 

 

 

登場人物

ノボル・・・・・・水島 昇

 

ユカ ・・・・・・桜井 結華

 

トキ子・・・・・・鈴木 秋子

 

 

 

 

  一、

 

 

 

 ノボルのユカへの愛情を語れば、それは並々ならぬものになる。ノボルはユカが好きだった。それは、若さという肉体から来る、性急な欲望ではなく、青春という名の信仰が、ユカをノボルのアプロディーテにさせたものだ。
 ユカの目は時に死んだ魚の目のように薄暗くなる。しかし次の瞬間、ユカのまなざしは、閃光がひるがえり、ノボルの全身をしばりつける。ノボルは、メドゥーサに見つめられて石像になった戦士のごとく、緊張するのだった。
 最初にノボルに声をかけたのはトキ子の方だ。共に学校のクラス・メートだった。ノボルは休み時間、廊下を歩いていた。まるで時計の振り子が刻むように。その時ノボルは、誰かがうしろからついて来る気配を感じた。ノボルには、それが女であることが分かっていた。その女が意外にも自分の名を呼んだ(いや叫んだ)のだから、ノボルの時計の振り子は、床に落とされてしまった。振り向く、ノボルの目に映った女の姿、それがトキ子だ。
「アソぼう。」「何をして。」
十八才の女が遊ぶということの意味を、どのように使っているのか、ノボルには理解出来なかった。
 しかし、トキ子の陰から蝶のように舞うプリマドンナが現れた。彼女は、ノボルを見つめながら、踊り子の使うあのしなやかな身体を一回転させ、その手を幾重もあるように見せた。その舞踏するパーラヴァティは、ノボルにきらめく声で、
「いいから、ウチにいらっしゃいよ。」
と言った。彼女がユカである。
 その時から一人の男と二人の女たちにとって、「アソぶ」というのは、「ユカのうちに行く」という意味になった。ユカのうちには母親が一人でいた。この東北出身の中年のおばさんは、随分前に夫を交通事故で亡くしていた。三人が突然、押しかけて行っても、何の文句も驚嘆もせずに、人なつこく話しかけて来た。ユカは兄弟がいないため、この家には、母と娘だけで住んでいることになる。その母親も、パートタイムの仕事をしていたので、夕方から夜にかけては誰もいないことが多かった。三人は連れだってよくユカのうちでアソんだ。
 ユカの部屋にはファミコンがあった。その他にサッカーボールもあれば、セーラー服だってあった。でも三人は、それらには全く見向きもせずに、もっぱらあばれ続けた。たとえばノボルは毛布を首に巻いてプロレスラーの格好をした。ユカは身軽な特性を生かして、中国拳法のマネごとをして、ノボルの頭に蹴りを入れる。すかさずトキ子は得意の四の字固めをもんどりうつノボルにかける。シラフの時はまだいい。三人はよくビールを部屋に持ち込んだ。大量のビールを喉に流し込む行為に、大人の味がする、とよくうなずき合ったものだ。大人の味は彼らを狂喜の世界に連れて行く。三人は歓喜した。
 ある時、ノボルはファミコンのハードを凶器に使った。ノボルには、そのプラスチックの「かたまり」が凶器にしか見えなかった。ユカのコメカミもトキ子のくるうぶしも、ゆがんで見えた。ピアノの足がノボルのスネをひっかけて、うっかり手から離したプラスチックは大破した。ノボルの背中で、誰かが「ギブ・アップ」を連呼する。トキ子は泣き出す。彼女がすがりついたセーラー服は、涙でびしょびしょになっていた。ユカはサッカーボールを頭にぶつけて黙々と一人遊びを始めた。それから三時間ばかり、三人の会話は消えた。そして沈黙の中で、三人は自分のオルゴールを見つけた。その奏でる繊細な音を聞くことも、彼らにとってはアソぶことの一つだった。

ユカのピアノの上には、深緑色の布で覆われたものがあった。いかにもわざとらしくかかっているその布の中身を、ノボルは「何だろう」と触ろうとしたときがあった。
「やめて」ユカはさえぎった。
「何?」ノボルは力ずくでその布をはぎとった。
男の写真が楯の中に入っていた。ノボルはその男がユカの父親であろうことを推測した。その男は、すでにこの世にはいなかった。



   二、



 ノボルはいつも顔を青くして、目のまわりにくまをつくっていた。しかし、彼はそのことを気にもとめていなかった。さも、それが十八才の少年の苦悩を象徴しているかのように、むしろ誇らしげだった。ため息と連れそって学校から帰ると、家の空気がそこには誰もいないことを教えてくれる。コンクリートに覆われた空間には、外圧からは守られているとはいえ、独特のにおいがたちこめる。ノボルは鼻を鳴らして部屋に入ろうとしたが、その時、食卓の上の数枚の一万円札が目に入った。
「親父のやつ、またか。」
現金と一緒に添えられた手紙には、案の定、ノボルが予想した通りのことが書いてあった。
 父親は愛人と旅行に出かけてしまったのだ。ノボルは自分の母親を亡くしてから、父親の所業については、無関心を装っている。何とかとか名のる女から何回か電話を受けとったことがあるので、所詮、その女とアバンチュールといったところだろう。手紙には、しばらく家のことはよろしく頼む、というような文句が書きつづってあったようだが、ノボルは最後まで目もろくろく通さずにその金を丸ごとポケットにつっ込んで、自分の部屋へとつま先を向けた。人形のことが気がかりだったからだ。
 いつも、ノボルの部屋は、この人形がすべてだったといっても過言ではない。ノボルは人形のために部屋に入るのだし、彼の部屋とは、人形が作り出した世界であった。
 ノボルは、この人形にほほ笑みかける。その人形の持つ愛らしさに向かってではない。人形の表情を真似ているだけなのだ。その金髪の美少女は、見れば見るほど母親に似ていた。ノボルの愛していた母に。
 ノボルは母親を亡くしていた。ノボルは、最初の異性として、彼女を憧憬のまなざしで見ていた。しかし、それを失ったとき、第二の異性が欲しくなった。第二の異性は彼の人形がその役目を果たすことになった。
 ノボルは人形の胸に耳をあてる。そして、彼女の鼓動を読みとる。そして、自分の鼓動の周期がぴったりと噛み合う瞬間を待ちわびる。ひたすら、回転する脈拍を彼女に近づける。ノボルは、その時はじめて、至福の笑みを浮かべる。そして彼女と自分の鼓動を見失ったとき、ノボルは現実に帰還する。まるで目の前をコマ落としのクイックモーションの画像が横切るように。
 ノボルはもう一度、まじまじと人形の顔を見つめる。舌で彼女の鼻をペロリとなめてみる。プラスティックの味がした。その次に、彼女の目を舌先でつっついた。再び彼女の顔に目をやると、ノボルはハッとした。その人形がユカにも似ていたからだ。不思議なことに、母親とユカは似ても似つかない二人だったのに。ノボルは、第三の女性が出現してきたことを、何となく実感してしまった。

 

 

   三、

 

 

 

 他の人が三人組を見たら、きっと疑いなく、ノボルとトキ子が恋人同志であり、ユカは、トキ子の唯のつき添いくらいにしか写らないだろう。その位、はた目には、ノボルとトキ子は仲良くしていた。三人で並ぶ時、いつもトキ子が真ん中になる。ノボルはいつも、はじっこを歩く。だから、ユカと肩を並べることは永遠にない。
 ノボルはよくトキ子と二人で深夜の映画を見に行ったりもした。ノボルが欲した訳ではない。彼女がそれを欲したからだ。そして、たいてい、別れぎわに唇と口びるを合わせもした。ノボルが欲した訳ではない。彼女がそれを要求したからだ。そばで見ている人々の目も気にせず、二人は恋人同志のように、腕を組んで歩いた。そして手をつないで走った。脚を組みかわして踊った。頭を相手のからだにうずめた。
 トキ子は、何故だか分からないのだが、夏でもコートを着ていた。どうしてだか、ノボルは変だと思ったが、ただのファッションだと解釈した。
「浮気しちゃ、駄目よ。」
「浮気?」ノボルはよっぽどきき返したかった。「オレたちって本当につき合ってんのか」と。
 でもトキ子の胸元に光るものが見えたので、ノボルは口をつぐんでしまった。「何?」すかさず彼女のコートの内側に手をのばしたノボル。そこから現れたものは、刃わたり十五センチ位にもなろうかと思われるジャックナイフだった。そして、トキ子はノボルの手から、その光るモノをひったくり、
「浮気したら殺す」と言って、ノボルをにらんだ。
 ノボルの脳天から尾てい骨まで、冷たい水が流れ落ちた。ノボルは恐怖に震えた。トキ子の恐ろしさにではない。自分の未来を、行く末を、何となく予見してしまったからだ。
「何でそんなモノを持っているんだ?」
「あ、これ?兄キが好きだったんだ、こういうの。」
トキ子はあっけなく正気に戻った。
「人にナイフをつきたてるのが、か?」
「いや、いや。ただのファッションよ、サバイバルゲームの。それで、あたしも興味持っちゃったわけ。あたしって、お兄ちゃんのこと好きだったから。」

 兄キがいくらナイフを愛好しようが、俺は彼女の兄キではない。どうひっくり返ったって。
 それよりも、ノボルが驚いたのは、彼女の厚着が、すべてあのナイフのためにあると気がついた時である。夏でもコートを着ているのは、胸元にあるナイフを目立たないようにする為だと。



   四、



 トキ子がノボルの人形に似ることはありえなかった。その人形は、見れば見るほど、すでにユカだった。そしてユカの死んだ父親とも似ていた。
 ユカを見ていると、彼女はいつも父親の影でいっぱいだった。だが、その死んだ人についての話を、ノボルはついぞ一言もユカから聞いたことはない。しかし、ノボルは悟っていた。ユカの愛に応えることの出来る唯一の道は、彼女の父親になることだと。ノボルは毎日、鏡を見る。そして、自分の顔を写真で見たユカの父親に似せてみる。
 ある日、学校で顔を合わせた三人は、例のごとくユカの家でアソぶことになった。ノボルはその日、少し違ってた。髪もぼさぼさだったし、服が乱れていた。目のまわりのくまは、いっそう青さを増していた。
「どうしたの?」とトキ子がきいても、ろくな返事はしなかった。実はノボルは二、三日寝ていなかったのだ。その理由は、ユカにあった。
 ノボルはユカに告白する機会をうかがっていた。そして、恋の女神がほほ笑むその瞬間を待ちこがれた。
 いつものようにユカの部屋をあばれ回る三人。ぶっこわれたファミコンは、いまだ処理されず、床の上に転がっている。セーラー服はまだぬれていたが、サッカーボールは相変わらず跳ね回っていた。ノボルがピアノを弾き始めると、残りの二人もピアノの前に並んで三重奏が始まる。
 ぎこちないその演奏でさえ、ノボルの青春を形容するには充分だった。いつしか「大人の味」も登場していた。ノボルは、準備万たん。スタートの鉄砲の音が鳴るのを待っているだけだ。それこそが告白の合図だ。三人共、ビール缶を片手に、自分の紙芝居を描き出してしまおうとした時、トキ子が便所に立って部屋をしりぞいた。ノボルはドキンと心臓が鐘を響かせたのを聞いた。ユカと二人になれる。ユカと二人だけの話が出来る。
 「ぼくが秋子とつき合ってるとでも思ってるの。秋子がぼくのカノジョだと思ってるの。ぼくは、秋子のことを愛してるなんて、そんな心にもないこと言えないよ。昔からぼくの好きなのは、君だけなのに。結華だけなのに。」
 ユカは最初、言葉も無しにキョトンとしてノボルに耳を向けていたが、ノボルの口からユカの名前が出て来たので、そのときになって、自分のことを言われているのに気付いたようだった。彼女の魚の目はトリの目のようにするどくなった。ユカは突然息が荒くなって、手に持ったビール缶からは、泡が吹き出した。
 ノボルは言葉を続ける。「どうして、時間は君の味方になってくれないんだろう。秋子よりも君の姿を、先にぼくに見せてくれなかったんだろう。ぼくは、今のままじゃ生きて行けない。結華が好きだ」この時、ノボルの人形はユカになった。



   五、



 この余りにもとっぴょうしも無い、大事な話は、なんとしてでもトキ子が便所から戻って来るあと一、二分で決着をつけなければならない。
 ユカは泡だらけの手でビールの缶を、ノボルに投げつけた。それは、ノボルの頭にあたって、ノボルは鼻がツーンとした。
 「あなたは嫌い、嫌いよ。秋子を知らないの。それでいてあたしを知っているっていうの。あの子はあんたが好きなの。そしてあなたも。」
「ぼくが秋子を好きだって?聞いて!ぼくの頭には君しかいない。ぼくはいつでも君だらけだ」その時、ノボルにとっては恐ろしいばかりの部屋の戸が開く音がして仁王立ちのトキ子の姿が現れた。ノボルはこの会話を立ち聞きされたかと思った。最初は鳥肌が立つほど身震いしたが、後からは、トキ子に説明する手間がはぶけるので、逆によかったなと、背すじの寒気が抜けるのが分かった。三人の会話が途切れる。サッカーボールがひとりでにドリブルして床の上でビートをたたく。テレビはつけっぱなしだが、二チャンネルは雑音を放つばかり。
 「何?」ついうっかり、三人が自分のオルゴールのふたを開けようとする直前、トキ子はその言葉を発した。
「トイレはキレイだった。結華、消臭剤変えたのね。」

そう言いながら、二人の間を通りぬけて、ヒザをかかえながら座るトキ子。彼女は何にも分かっていないようだ。あるいは分かっていないように演技しているのかも知れないけど。
「ね、結華、知ってる?昇の目のまわりくま。こいつ三日間も寝てないんだってさ、アハハ。」トキ子はそう言ってヨガのポーズをとった。やっぱりコート姿のまま。
 ノボルは直るはずもないファミコンの修理を試み始めた。ユカのにらみつける目をよそに。さっき缶を頭にぶつけられた時の痛みが、その頃になってようやくジンジンとふくれ出した。心臓の鼓動が波うつように。
(目、目、目。そして目。こいつが結華を俺の人形に変えてしまった。)今では、すっかり、ノボルの人形はユカだ。ノボルはついに自分の目を恨んだ。(こいつさえなければ。)

 三人の沈黙はいつものこと。でも、同じ静寂の中にいても、今の三人はいつもとは違う。サッカーボールで遊ぶ筈のユカは、腕を組んで、ノボルを凝視する。ノボルは明らかにその視線を感じとりながら、今日はファミコンのカケラをどうにかしようとしている。トキ子は、脚を組みかえたり、身をよじったり、手と手をそろえたり。しかし、ふところのジャックナイフの光は、隠したままだ。
 「ね、結華、ぼく帰るよ」ノボルは、片手に絶望と、もう片一方に重圧を持ったまま、スックと立ち上がった。運命は、足かせとなり、ノボルの足どりのさまたげになる。
「あたしも」トキ子はサッと飛び起きた。そして、右手でユカの頭をさすって、
「また会いましょう」と言い放つと、ノボルの背中に吸いついていった。
 ユカは言葉を発しなかった。ただただ無言だった。ノボルは、自分の思いの七割以上をユカの部屋に残したまま、外に出た。



   六、



 コハク色に染まる夕暮れの高層ビルにつつまれ、ノボルとトキ子は、人だかりの黒い群れの間をぬいながら歩く。ノボルのオルゴールはすでに働かない。そのネジの回転は、もうとっくにユカの血に吸い上げられ、その歯車の軸は、ノボルの心を掻き乱している。
 ノボルは帰路を急いだ。まとわりついているトキ子には目もくれずに。ユカの為に、ユカというノボルの人形に会うために、ノボルは自分のマンションへと足を運ぶ。途中、トキ子と別れてからも、そのことがいっぱいで、頭からこぼれ落ちそうだった。
 玄関から自分の部屋へと飛び込んだノボルは、そこに彼の理想としてのユカを見た。人形は笑顔を絶やさない。言葉ももらさない。
(どうして、どうして、結華。)本当のユカと、彼の人形との区別がつかなくなっていたノボルは、その時、ユカが分離して二人になったことに気付いた。そして、自分の描き出した理想に嫌気がさした。(俺は結華の父親にはなれない。そして、この人形だって本当は結華ではなかった。)ノボルの目から涙があふれる。
 疲れていた。全然寝ていなかった。大粒の涙は、自然とノボルを眠りに誘った。
 ノボルは四方、八方、花でほどこされた大地にぽつりと立っている。お花の色は、黄色、紫、ピンク。一人の黒髪の少女が目の前に現れ、ノボルの手を引く。引っぱられるままに、少女についていくノボル。背景は、白くぼんやりとしていて、ほのかな光にそれが強く反応して明るい。
 ノボルは自分の手を引く少女の後ろ姿に声をかけた。「誰?誰?君はいったい誰なんだ」よく見ると、遠くの方には七色の虹がかかっている。陽だまりが、黙々と手をつないで進む二人をつつむ。「私を忘れたの」少女がノボルに振り返って言う。「結華よ」「嘘だ。君は、そんな、僕の知ってる結華はそんなんじゃない」おかっぱ頭の色白な少女は、懐かしそうな片目で、うらめしそうなもう一つの目で、ノボルを見つめた。「みんな、あなたの目がいけないのよ。だってその目で、あなたは自分の理想を勝手につくり上げてしまうんですもの。
 ノボルの心臓はドキドキと血液の遠心力が増してきた。しかし、そのとき、耳の窓のすき間から、ジリリリリリリンという音が流れて来る。
 寝ボケたまま顔を見上げたら、その正体は電話だった。ノボルが部屋にある子器をとってみると、相手はトキ子だ。
 「ビール」「えっ?」「別れるときに気付いたんだけど、あなた、頭にビールがかかってた。結華の仕業ね、もう。昇、あなた何か言ったの、結華に」「言ったさ」「またどうせあの娘をからかったりしたんでしょう」「いや違うんだ」「何を言ったの」「聞いてよ、秋子」
 ノボルはトキ子にすべてを打ち明けた。快活に、しかし控え目に。ノボルの本心から来ているその言葉は、かえってノボルを楽にした。嘘を言わなくて済む解放感から。「そういう訳なんだ。理解して欲しい、秋子。ぼくの好きなのは結華なんだ。最初から、会ったときから、いや、ひょっとしたら合う前から」ノボルは、彼の人形を思い浮かべながら、そう言った。
 トキ子は沈黙した。一分も無言のまま発した言葉は、こうだ。
「殺してやる。結華を。今すぐ殺してやる」そう言って回線は切れた。ノボルは、脳裏にトキ子のきらめくジャックナイフを浮かべた。
 部屋でノン気にはしてられない。シングルのジャケットを荒々しくつかむと、急いで部屋から出て、ノボル自身もユカの家へと出直した。



   七、

 

 

 

 すでに夜風が寒い。月が語る。星たちがささやく。一刻を争う出来事が間近にあると。運命のくじを引かなければならない瞬間が来ると。ノボルの足なみひとつひとつが、かつて自らで築き上げた橋を壊して行くようでもあった。歩けば歩くほど、その調子は速くなる。最後には、半ば小走り状態になって、ユカの家を目指した。
 (とにかく秋子よりも先にたどりつかなくちゃ。)
ノボルは、荒れて来る息をのみ込みながら、そのことだけを考える。目の前をかすめる映像はトキ子の振りかざすナイフのきらびやかな反射。そして、ユカの胸から吹き出るあざやかな血液は父親の写真を真っ赤に染める。
 ノボルが果たして、ユカの家の扉を開けてみると、案の定、鍵はかかっていなかった。そして、ユカが横たわっていた。少しばかりのやすらぎを抱えて。
「結華!」ノボルは、そのほほ笑むアプサラスに向かって声をはり上げた。
 女神はうたた寝をしていただけだった。
「昇、どうしたの」まぶたをこすりながら、ユカのかすれた声がこうささやく。ノボルが安堵の胸をなでおろそうとした時、ユカの目の瞳孔が開いた。ノボルも背後に人の気配を感じた。
「秋子!」ユカもノボルも、ほとんど同時に叫んだ。そこにはナイフをかまえたトキ子がつっ立っていた。しかし、とっさの判断でノボルは、トキ子の持つナイフを彼女の手ごと蹴とばした。トキ子はうめき声をもらしながら、床になだれ落ちる。頭をぶつけたらしくて、完全に気絶してしまった。
 ノボルは這いつくばって、落ちたナイフをひろった。もの言わぬトキ子にとどめをさすためではない。自分の宿命に応えるためだ。それは、自分の目をこの世から抹殺することだった。ノボルは、わけの分からない奇声を発すると、まぶたを大きく開け、持っていたナイフで、両方の罪なる眼球をえぐり出した。ノボルの目は光を失った。同時に人形の残像も崩れ去った。うずくまる。鮮血が顔を覆う両手の間からはみ出る。
「あぁ、昇!なぜ?」ユカは片ヒザを立てて、うなだれるノボルに寄りそい、両目から溢れる血をなめ始めた。そして、こう語った。



   八、



 「もう、何もかもおしまいね。秋子は倒れてて、何もしゃべらない。昇、あなたは、そう、とても優しくしてくれた。あたしにも、秋子にも。覚えてるでしょう、最初に会った時のことを。そして三人で遊んだ日々を。
 あなたの髪の毛は私を目覚めさせ、あなたの額の汗は私を奮いたたせ、あなたの口びるは私を元気にしてくれた。
 でも、昇、あなたは秋子のことを何も考えていなかった。だからいけなかったのよ。この娘はあなたのことが好きだったんだから。そしてあたし?ウフフ。あたしは、そうね、あなたを恨んでいた。秋子とつき合っているあなたを。

 ね、昇。私はあなたを愛していたのに。でも、秋子といっしょに映画に行ってたあなたを憎んでいた。
 昇、私は処女だったのに。秋子と脚を組みかわしたあなたを羨んでいた。

 あたしはあなたが好きだった。でも余りにも唐突過ぎたのよ。すべては、私のパパがいけなかった。あたしの中にパパがいる時には、あなたは私の中には入れないわ。それは、誰だって同じことよ。何もあなたに限ったことじゃない。誰だって他人の聖域には入り込めないわ。パパは、あたしのメッカだったの。
 でも、昇・・・・・・。今、あなたはあたしの教会に入り込もうとしている。その視覚を失った身で、あたしの最も純白な生地を、染めようとしている。いいわ。受け入れましょう。あなたという私の神様のために。」

 

 

 


                アルルカンのホームペイジ
『ガリバルディID』に戻る

 

 

Copyright©Keita.2000