『情熱』 後編

一、
都会のネオンはきっと浅い酔いの学生たちにも刺激的だろう。特に田舎から出て来て、アルコ
ールにさほど馴染んでいない悟にとっては、ゆらゆら揺れる光の残像が、かつて味わったことの
ない心地よさを与えていたに違いない。今日という悲しくも陰鬱な日でなければ。
勘定を終えたばかりの映研部員たちがドヤドヤとせまいビルの入り口から出てきた。街は人通
りが激しく、歩道に沿って一階からずっと上まで居酒屋でしきつめられた似たようなビルが立ち
並ぶ。ただでさえ人ゴミの中であるのに、コンパの余韻を楽しむかのように、まだまだ話し足り
ない新入部員あるいはその先輩たちが、いくつかのグループに分かれて、ほろ酔いのまま立ち話
をしている。一人だけ肩を沈ませ、もの思いにふける小沼悟を残して。
こういう時にも、部長という人種にはぬかりがない。すべての部員に目をやり、無事全員がい
ることを確認してから、
「そんじゃ、今日の新歓コンパはおひらき。新入生はやりかけの映画、頑張れよな。」
と軽いプレッシャーの言葉をかけた。新入生はやや苦笑いをしながらも、低い声で「はーい」と
みんなが皆似かよった返事をした。その滑稽な風景は、二、三の先輩の笑いを誘った。悟ももち
ろんそれに合わせて、愛想程度の返事をした。
だがその日の悟にとっては、周りのそんな楽しそうな状況は、少しも感受し得ないものになっ
ていた。
あの二人のために!・・・悟はなおもその二人に目をやる。その二人とは、歩道の端のガード
レールに腰をもたれ気味に笑顔で話す三年生の先輩と、そしてその傍らに、両手を伸ばして
ハンドバッグを下腹部に持つ五十嵐通子。先輩の冗談にいちいち体を揺らせて、恥ずかしげに応
える通子の姿は、今までに見たどの通子よりも大人びて映った。――悟の目には。
「二次会、行く奴はついて来いよ、いっしょにいこうぜ。」
部長は当然のごとく、間近にいる不特定の部員に誘いをかける。悟は同輩の一人にヒジをつかれ、
「どうする」と訊かれた。部長の言葉も、同輩の問いかけも、悟の心の奥底をつつくものでは
ない。
「うーん、そうね。」
悟はちょっと迷った。いや、迷ったふりをした。それは単に、友達に対して軽薄な態度をとるの
は申し訳ない、という本心から来ていた。そして又、通子と相手の先輩に視線を向ける。自分が
どうするかというよりも、あの二人は二次会まで行くのかどうかに、むしろ関心があった。
「おい和田、お前も来いよ。」
部長がガードレールの二人に声をかける。和田というのは、通子といっしょにいる先輩の名前
である。
「あ、俺帰るわ、明日一限あるし。」
先輩は帰ると言った。悟はそれに続く通子の言葉に少し恐れを感じた。次の瞬間、悟の背筋に
冷たいものが走る。
「それじゃあ、あたしも帰ります。お先に失礼しまーす」と通子は、確かにこう言った。斜めに
腰を曲げて周囲に礼をしながら、長く垂れた髪がひるがえるように背中に回った。下を向いた
まま一瞥も与えずに振り返る通子。小走りで先を行く先輩の方へ行ってしまう。
悟は何故か笑った。己の無力さにあきれたのと、悲しみを越えた動揺はただ笑いという表情
しかもたらさなかった。悟はその日はそれで帰ることを決意した。ふと同輩を見ると、奴は通子
と先輩が肩を並べて歩く光景をにやにやしながら見ている。
「俺も明日の朝早いから失敬するよ。」
そう言い残した悟はきびすを返して、街の暗がりの方に足を運んだ。
「あ、そーか。」
答える同輩は半分うわのそらだ。加藤朱美は悟のそういった行動を見逃さずに、その後ろ姿を追
っかけてビルの影に消えた。
「あれ、小沼のやつ、明日は授業、午後からのはずだけどな。」
我に返った同輩はそうつぶやいた。
二、
むせるような湿り気のある夜風が、これから来る梅雨を思わせる。半そでのシャツの中から首
すじに洩れるじめっとした空気は、悶々とした悟の心を少しも晴れやかにしてくれない。その
気持を掻き消したいがごとく、一歩一歩踏みしめるようにポケットに手を突っ込んだ悟が肩を
いからせて帰り道を急ぐ。
華やかな化粧をした都会。一本裏道に入るとその素顔を見せる。あれほど街を彩ったネオンの
かけらもすでになく、等間隔に並んだ街燈はぼんやりと光って何も言わない。あるのは、悟の
革ぐつがアスファルトをたたく音だけだ。
「小沼君!」
悟は自分を呼ぶカン高い女の声に立ち止まった。キョトンとして声のしたほうを見ると、朱美
がそこに立っている。電燈の逆光が彼女のスリムな体を地面に映し出していた。彼女の口もとの
笑みは、その時の悟にはさほど厭味にも感じなかった。
「おう、加藤朱美。あれ、おぬしも帰り、こっちの方だったっけ?」
やや照れながら、悟は喉の奥の方からこう言った。思いがけない出来事に、恥ずかしさが先行し
たのだ。
「そうよ、何、知らなかったの?」
両手を後ろに回して、大股に歩き始める朱美。つんとお尻を上向きに、それは少なからずの女の
魅力だ。相も変わらずの性格にあきれながらも、悟は彼女の歩く後ろに続いた。
半分枯れかかった心を潤せるほどのものでないにしろ、朱美の出現がなければ、その夜の悟が
いつもの悟に戻る迄には、もっと時間のかかったことだろう。朱美はいつもの朱美よりもはしゃ
いでいた。それが彼女にとっての照れかくしだったのかも知れない。悟は、朱美の語調について
行くのが精一杯で、すっきりしない心をかかえながらも愛想笑いをして見せた。虚しい、一人き
りの帰り道よりは、朱美のとぎれもない問いかけに答えている方がまだましだと思った。また、
今一緒にいるのが、朱美じゃなくて通子だったらどんないにかもっと楽しいだろう
・・・・・・そう思ったりもした。朱美には失礼だったが。
そんな悟と朱美の会話もそろそろ話題が尽きて来る頃、悟は突然立ち止まる。
「どうしたの?」
朱美はけげんそうに悟の顔をうかがった。悟は右手の、二階建てのアパートを指さして、
「あ、俺のアパート、ここ。」と言った。
「そうなの」とうつむいた朱美の鼻すじの通った口のあたりがもぐもぐと動いた。
「コーヒー」と悟には聞こえたが、確信がなかったために「え?」ともう一度訊き返した。
「いや、あたしコーヒーが飲みたいなって思って。」
朱美の目がうつろげに悟を見つめる。足もとにおとした視線を再び悟の位置まで戻してから、今
度はうかがうように、
「おじゃましてもいいかしら」と言った。
朱美のその発言は、悟にとってこれほど意外なものはなかった。どういうつもりで言っている
のか、意図がつかめず、冗談かとも思ったくらいだ。
「うちにかい?」・・・・・・ゆっくりとうなずく朱美。こんな当たり前なことを訊きながら悟は
当惑した。朱美は確かに悟の見る限り気が強くて積極的な女だ。そんなことは全く承知の上で、
しかし今、目の前でうつむく朱美は、悟には悪魔にも天使にも見えた。
正直に分析してみても、その時はただうれしかったのか、あるいは気を紛らわす誰かが欲しか
っただけなのか分からない。
「いいよ、あがってけよ、コーヒーぐらいなら。」
ともかく、悟はこういう返事をした。
「やりィ。」
「なにが『やりィ』だ」
――意気ようようと声のトーンがあがる朱美に、悟の表情が少しやわらかくなった。
「いいから、いいから。」
朱美は悟の右手を引いて、アパートの階段の方に誘導した。彼女の急ぎ足に引っぱられて、
よたよたと歩き出す。その手の平の感触が悟の鼓動を早め、胸から顔のあたりを心なしか
アツくさせた。
三、
悟の部屋。1Kの一人暮らしだ。南向きの大きな窓がある。
「へぇー、結構片付いてる。」
朱美はぐるっと部屋の中を見まわしてから、中央のちゃぶ台の前に腰をおろした。悟は台所でや
かんに火をつけながら、
「そうかい?」と言った。
青白い光線が窓からもれる。その光線がもう一度あやしく光ったかと思うと、今度は雷が鳴り
だした。
「いやだ、雨になるのかしら。」
朱美の瞳の中に稲妻がはしった。耳に届く遠くからの重い響き。サーという雨音がするまでには
さほどの時間もかからなかった。強い雨が降り出して、雷の音がいっそう太くなる。もうとっく
に夜は更けている。静かな部屋に雨つぶがたたきつける。
やかんのお湯がふっとうしていた。その細長い口から水蒸気が湧き出している。それをとって
テーブルの上の二つのカップにつぐ悟。雨というBGMが無口に向かい合う二人のムードをリラ
ックスさせていた。二つめのカップがコーヒー色でいっぱいになってから、悟はそれを朱美の方
にすべらせた。カップをとって口にもっていく朱美。その時、また二人の目が合った。
朱美の口もとからカップが離れた時、いい知れぬ緊張感が悟るによぎる。
「ね〜ぇ、小沼君。通子のことなんだけど・・・・・・。」
「五十嵐さんが、何?」
ためらいがちな朱美の口から五十嵐通子の名前が出たものだから、悟はドキッとして一瞬、飲み
かけのコーヒーを喉につまらせそうになった。まさかこんな場面で朱美がこんな話を振ってこよ
うとは。笑顔をつくりながら、思い切ったように朱美は言葉を続ける。
「好きなんでしょ。」
でかい雷の音が鳴った。カップを持つ悟の手が汗でにじんだ。そして首すじからカッという熱い
血がほっぺたを通りすぎた。外ではおかまいなしに雨が落ちている。
「へ?」
悟はわざと朱美の方を向かずにおどけて見せた。そうするしか対処の方法がなかった。
「小沼君、五十嵐通子のこと好きなんでしょう。」
まるで図星の問いかけを再び朱美にふっかけられた時、今度は「う〜ん」とだけ言って苦笑いを
した。どうしたものか、この状況は。マイペースの朱美に完璧に呑まれてしまっている。しかし、
この質問の答えの必要のないことを、朱美は勘付いていたようだ。
半分がっかりした様子で、
「いいの、分かるわ」とだけ言った。
悟はこの気まずい雰囲気に耐えられるだけの度胸が自分にあれば、と思った。否、明るく
会話を別に持って行くことなど簡単だ。しかし、今はそんなものは全く求められていない。
朱美の胸がため息とともにしぼんだ。ひとさし指でコーヒーカップのふちをなぞっている。
悟が次の切り出し方をどうしようか戸惑っているうちに、
「ね、小沼君・・・・・・」
と朱美の方から口を開いた。
その瞬間、もの凄い稲妻に雷が起こったかと思うと、突然、部屋中が真っ暗になってしまった。
すべての電気があっという間に消える。
「いやーだ、停電!」――朱美がそう叫ぶ。
本当に停電らしい。しばらくしても何の音沙汰も無い。ブレーカーがあがった気配もなかった。
部屋の中が騒がしくなった。悟も朱美も互いに手さぐりで、バタバタという落ち付きのない
暴れ方をした。ふと悟はテレビの上のライターを思い出して、その炎をたよりに、押し入れの
奥の方を引っ掻き回した。
「停電なんて、近頃珍しいこともあるんだね。」
悟は、手の先で冷たいつるっとした感覚を見つけると、「あった、あった」と一本の白いろうそ
くを取り出した。ライターでろうそくの火をともしてから、小皿にろうを垂らし、きちんと立
ててからおもむろにテーブルの上に置く。
肩を並べる二人は、ろうそくのほのかな炎を眺めている。その炎がかもしだす平和。そして
安寧。二人はやすらぎの心持ちで、互いに自分の時間と、相手の世界とを共有していた。
「でも・・・停電より、こんな時にろうそくを持っているあなたの方が、よっぽど変わって
いるわ。」
ほのぼのとした気持ちで何げなく悟をからかう朱美。
「えっ、まぁいいじゃないか」――悟の、気の抜けた返事。
なびくろうそくの炎。頬づえをつく朱美。その耳に光るピアス。ぼんやりと、唯ぼんやりと。
アパートの前の通りを一台の車が通り過ぎた。そのランプの光が悟の部屋を斜めにかけ抜けて
行った。雨が窓をたたきつける。その夜の雨はずっと何日も続くのだった。
四、
天気予報が梅雨入りを宣言した。来る日も来る日も、どんよりとした空にうっとおしい雨。
悟の苦悩を描き出したかのように。街はいろんな種類の傘でむさ苦しい。
悟には明らかに迷いがあった。夜の嵐にまぎれてしまた朱美の言葉。その向こうには彼女の愛
情が見える。だが悟には、振り向いてそれに目をやるだけの余裕がなかった。なぜなら、彼の心
の中には、まだ通子という偶像が居たからだ。
雨の中を一人で歩く悟。黙々ともの思いにふけっている様子。ピチャピチャと跳ね返る水で、
ズボンのすそが濡れる。いそいそとすまし顔の人々とすれちがう。何となく映研の部室など行き
たくはない。もう、意味もなく。だから今日も、午後の授業が無かったので、さっさと学校を
引きあげて、一人でぶらぶらしている。
悟は角の花屋を通りかかった。神のいたずらとはこういうことを言うのかも知れない。その時、
ちょうど花屋から出て来た通子と和田――先輩にばったりと出くわした。
「こんにちは。」
会釈した通子は無表情で、至って事務的だ。悟はいつものポーカフェイスで「こんにちは」と
仕方なく言い返した。
「よう、小沼」と先輩。
「どうも」・・・・・・ほんの束の間のこの挨拶が非常に永く感じた悟。
「じゃ」と言った和田先輩は、通子とバス停の方へ向かう。悟はわざと違う方向に足を運んだ。
別にそっちに用事があった訳でもないのに。雨の街をずんずんとつき進む。しかし、眉間のしわ
は益々よるばかりだ。
その晩、悟はなかなか寝つけなかった。いくら目を閉じても、通子とそして和田のイメージが
頭から離れない。今頃、二人でどっかお茶でもしているのだろうか、あるいは肩を寄り添って帰
り道にあるのだろうか。もしくは?――そう思うと、目がさえて来るばかりである。部屋の電気
をつけて時計を見ると十一時過ぎだった。どうせこのまま布団の中にいても寝られないに決まっ
ている。パスケースの時刻表を見て電車がまだあることを確かめてから、悟は意を決して通子の
アパートへとおもむいた。
悟は、これが自分の恋心にふんぎりをつける最後のチャンスだと思った。通子のアパートは、
一度だけ映研の仲間たちと行ったことがあるので、知っていた。そして悟は彼女の部屋の前の扉
の表札を目の前にしている。しかしいざその「五十嵐」の文字が目に入ると、あれほどの強い意
志を持って家を出たにもかかわらず、腕を組んで立ちすくんでしまった。どうしてもベルを鳴ら
す勇気が出ない。だいたい、こんな夜遅くに、何と言って彼女と顔を合わせたらよいのだろう。
相手にしてくれる訳がない。そう思えば思うほど、悟の指は呼び鈴ボタンから遠ざかる。
おじけづいた。あきらめた。とうとう悟はアパートの階段をおりようとする。足が重い。体も
揺れる。すると通子が何か話をしながら玄関の戸を開けて出て来た。会話の相手は――悲しい
かな、その後すぐに扉から姿を現した和田であった。悟はあわてて階段の陰にかくれた。二人は
そのまま何も気付かずに階段をおり、駅の方角に消えた。和田の左ひじに寄りすがる通子。
それで充分に決定的だった。悟は失恋したのである。絶望感がただよう悟の顔。手がブルブルと
震えた。
悟はまた街を一人で歩きだす。雨はまだ降り続いている。
♪ 僕の愛に春のおとずれ 僕の知ってる二番目の季節
貴女(あなた)は青春の太陽 かつて味わうほのかな暖かみ
大人になる自分に気付く 炎が見る間に大きくなる
僕の微笑に夏が来る 心の雲を追い払い
目だけで話しておくれ 貴女のためのこの曲だ
大丈夫、理解し合えるさ この気持ちずっと変わらないのだから
僕は冬の冷たさを感じて 心の寒さは消えないと思っていた
二人に立ちはだかるものはなく 今貴女を愛してる
思い高ぶる季節たち ゆらゆらと風のように舞って
身を捧げることの不思議 僕らには光が見える
これが愛の神秘というものか 僕らの肩に雨が落ちる
今は雨、雨、雨・・・・・・雨だけが僕らの肩に落ちている♪
Rain Song/Led Zeppelin
悟はふとわれに帰る。道の真ん中に朱美が立っていた。彼女は精いっぱいの笑顔で。それは、
未来への明るい予感。朱美が傘をかかえてにっこりとほほえむ。まるで聖者のあこがれるマドン
ナのように・・・。雨はいつしかあがる。
五、
ろうそくの炎。悟の部屋はシーンとしている。雨あがりの夕日が久しぶりに薄い光線を部屋の
中に送り込む。台所と居間とをしきるふすまの影に悟と朱美がいる。
「本当にろうそくが好きね。」
くすっと笑いながら朱美。悟は炎に息を吹きかけ、その炎がぼっと揺れて黒い煙を吐くのを見て
たのしんでいる。停電の時初めて灯したろうそくも、残り半分といったところだ。悟と朱美とろ
うそくがつくり出す空間が、沈黙を誘う。
「なぁ、朱美・・・・・・。ろうそくの炎は一見するともの静かで何の変哲もないだろ。」
朱美は楽しそうに悟に耳を傾ける。
「・・・でもその炎の中って、千二百度もの高温なんだ。」
「ふーん。」
「ピンと来ないかも知れないけど、これって本当のことなんだ。」
情熱・・・・・・。真っ赤に燃える太陽。でも、悟の太陽であった通子は・・・――通子はも
う暮れかかっている。ちょうど今さし込む夕日のように。そして傍らにはろうそく。今、朱美と
一緒にいる。それにしてもギラギラとまぶしい太陽に比べてこのろうそくの何てはかないことか。
だがここにいる朱美。――朱美は・・・?
悟は、だんだんと顔に笑みを浮かべて、
「そうさ、そういうことなんだ」と言った。
「なーに、独り言云ってニタニタしちゃって、気持ち悪い。」
「いや、別に。」
悟にはろうそくの炎の奥底に何かが見えたような気がした。
「いや、別に。」
言葉をかみしめるように同じセリフを繰り返した。

六、
「カァーット、よっしゃー。」
悟が感動の力こぶしを振りかざして叫んだ。
昼下がりの中庭。青空のもと、かねてからつくりかけの映画がついに撮影し終わったのだ。
新入生たちは、一応ひととおり自分らの努力をたたえ合い、満足感であふれている。高笑いも
こぼれて、調子づき、じゃれ合っている奴らもいる。そして、とりあえず身近なものから後片
付けをしだす同輩たち。出入りのはげしい落ち着きの無さ。この活気は部活独特のものであろう。
悟は三脚付きの八ミリカメラを小わきにかかえて、大股で闊歩する。安堵の気持ちと、これ
からだなという強い決意が交差した。
「お疲れさん、ついに出来たわね。」
悟にかけ寄った朱美が満面の笑みでそう言った。
「あぁ、サンキュー。まだ編集が残っているけど、ひとまず一段落だよ。朱美もご苦労さん。
よく協力してくれて助かった。」
朱美は、この上なくうれしそうだ。
「ね、小沼君、ところで題名は何にするの、映画のタイトル。」
「あら、朱美は知らなかったんだ。――『情熱』よねー、小沼君。」
五十嵐通子が、二人の会話を聞いていたみたいで、横から間に入って来た。悟はそんな通子の
行為を、ひどく不快に思った。
朱美は「『情熱』・・・・・・」とつぶやく。通子はそんな悟の気持ちをかえってあおるように、
「真っ赤な太陽が燃えるような『情熱』なんだって。小沼君にとっての『情熱』ってそういうこ
とみたいよ、ねー。」
何という小悪魔。何という意地悪さ。これがあのあこがれ続けた五十嵐通子なのか。悟の顔色が
さらに曇った。こんな通子は見たくもなかった。
「・・・・・・そうなんだ、全然おしえてくれなかったじゃない。」
不満げに、すこし責めの言葉を発する朱美。
「いや、そんなんじゃない。そんな大そうなこっちゃない。」
――否定したかった。過去の自分も、通子への思いも、「情熱」に対するそういった誤解も、とに
かく悟は否定したかった。通子にはきっと、悪気は無かったのだろうと信じたい。しかし、彼女
は悟の強い返答を意外に思ったのか、おや、と立ち止まって、悟を凝視した。
「あら、違うの?」
七、
梅雨の晴れ間の雲はどす黒い。特に夕方は。オレンジ色の西の空に、墨をつけたような細長い
雲があちこちで山に沿って延びる。夏まではもうじきだ。季節は待ってくれない。でも季節は
必ずやって来てくれる。
悟の部屋のろうそくは、もうほとんど残りわずかだ。今にも消えそうに、チラチラ、チラチラ
と繊細な最後の光をはなっていた。短いろうそくをのせた皿は、ちゃぶ台のすみに追いやられ、
ほとんど相手にされなくなってしまった。でも、けなげなその炎は、日没後の紫色の夜空よりも、
より現実的に、そこにあった。もうすっかり見慣れてしまった悟と朱美の風景といっしょに。
「まだ彼女のことを考えてるの?」朱美が訊いた。
「いや。」
・ ・・・・・ろうそくの炎は太陽とは違って、か細く、弱く、暗いかもしれない。だが静かに
・
悠然と燃えるその炎は、ギラギラと光る太陽よりも、芯の強さを秘めているように見える。
「あら、ろうそく・・・」朱美ははっと気が付いて、
「・・・これもうすぐ消えるわ、だって終わりなんだもの」と残念そうにしみじみと言った。
「いや、消えないさ。」
「あら、どうして。」
悟はぐっと言葉を溜めた。そして言おうか、言わまいか迷った。本当は消えるのである。でも消
えちゃいけないんである。すこし照れながら、悟が口を開く。
「朱美は笑うかも・・・・・・。これは俺の心の炎なんだから、本当さ。」
そして悟は心の中でこうつぶやく。美しい朱美に向かって。
(朱美、お前への思いはまるでこの炎のようだ。そう、俺の話を聞いてくれるかい、俺はたった
今、このろうそくの炎に名前をつけた。――「情熱」・・・と。) 終わり
