臨島   臨島(りんとう)

 

   平成十一年度「海洋文学賞」応募作品(落選)

                 沢井 慶太

 

 

 クペの(かたわ)らには孫のティティがいた。生まれてから五つめの年を迎えるこの少女を手

慣づけるのは、(しょう)にはまった孤船を操るように難儀だと思っている。
 二人は海岸で植木の手入れをしていた。その植木は丘の斜面から浜辺まで運んできたキ

ンポウゲだった。薄紫の花を咲きちらし、庭先の白砂に整然と並べられているこの木々の

()(もと)には、雑草がコケのように生えてきてしまうのだ。雨季ならば二、三日、乾季でも五、

六日に一度はこれをむしりとってやらなければならない。
 二人は太陽が埋没してしまうまでの、涼みがかった夕刻のひとときを利用して丈の短い

雑草を採っては椰子の葉で編まれた(かご)に投げいれた。途中、飽きっぽいティティは何度も

作業をそっちのけにキンポウゲの花を引っこ抜いては自分の耳もとに刺して遊んだ。
「もったいないからやめなさい、ティティ。」
 少女は祖父の制止をいっさい聞かず、気にいらなければその花を地べたに投げ、また新

しい花びらをつまみ採った。
 クペはティティの落とした花を拾おうとしゃがんでいた腰をあげた。その刹那に味わう

膝の痛みで、自分の老いを感じざるをえないのだ。まず膝頭に、船の(かい)で打たれたような

激痛が走る。その次に溺れるような目眩(めまい)に襲われる。眼前に広がる海の情景はこの上なく

揺れておぼろげになった。
 かつてはこの健脚と(たくま)しい腕とで、故郷の村では一番の泳ぎ手を誇ったこともあった。

日に百匹もの魚を捕まえて、仲間うちからもちやほやされたものだ。ところが今ではその

脚が(さび)つき、腕の筋肉は崩れおち、腹の周りにはびこった無情なぜい肉だけが日々の立ち

まわりの邪魔をする。その体にまとわりついた肉の塊は、椰子の汁を飲もうと殻を口に持

っていく動作さえおっくうに思わせた。
 頬に手をあてる。その肌からは昔のつややかさが失せ、ガサガサした表面に触れるだけ

でも(おびただ)しい(しわ)の数が連なるのが分かる。しかしクペの(しわ)はその線の一本一本が今まで舐

めてきた潮の匂いを覚えていた。
 人差指が額の古傷を探しあてた。それは遥か昔、(こい)(がたき)から浴びた木製の刀による傷だ。
この痛手を(こうむ)った当時は、その痛みそのものが彼の鼓舞の対象になった。その怪我とひ

き替えに、英雄の称号を勝ちとる勢いを得たからだ。
 クペはそうっと額の傷跡に沿って肌に出来たくびれ(、、、)に指を這わせた。(うず)きはすでに全く

ない。それは表面の奥深くに封印されてしまったかのようだ。それでも赤黒くただれたそ

の傷口に触れるときはいつも、何か熱いものをさわるような手付きになった。そこに潜ん

だ記憶は、稲妻の閃光を喚起させたからだ。
 ようやく目の(くら)みが元に戻ってはっきりとしたとき、夕日はさらに海面へと影をおとし

ていた。穏やかな波は、青というよりはむしろ黒みを混合して空虚(うつろ)にざわめいている。(ほの)

かな曇りだ。霞が太陽を反射して空間と海が融けあい、水平線が定かではない。
 クペは二十歳のときにこの島へやってきて、すでに三十回めの新年(マカヒキ)を迎えていることに

気づいていた。今は雨季で暖かいからまだいい。この島の乾季は、特に南から吹く寒風で

年とともに(からだ)にこたえた。
 あんまり祖父が海ばかりを眺めるので、少女は尋ねてみたくなって、結んだままだった

口を開いた。これ以上無言のままクペの気を引くことに、ティティは断念したのだ。
「ねぇ、クペ。クペはあの海のむこうの島から来たの。」
「そうだよ。お前のおばぁちゃんと、仲間たちといっしょに何十日もかけてやって来たん

だ。」
「おばぁちゃんて、死んだアオテアロアのこと。」
 ティティはその人の名をまわりから聞かされて知っているだけだった。その昔、故郷の

島アティウから追われ、新転地であるこの島で名を馳せた英雄クペとその妻アオテアロア。
 そのクペと目の前の祖父とが同じ人であることなど、少女にとってはつまみ採って捨て

た花びらほどの関心もなかった。しかし自分が生まれるよりも前に死んだアオテアロアだ

けは、なぜか美しいものとしてティティの胸には刻印されていた。
 そう、アオテアロアは美しくなければならなかった。たとえば土地に根ざした椰子の木

の豊満な実を割って出てきた清純な白い果肉のように。つややかに輝きを放つ湧水でなけ

ればならなかった。海から授かった塩が人間の体を潤すように。
 少女が住んでいる島は、祖母の名をとって「アオテアロア」と名付けられていた。それ

は「遠くたちこめる雲」というような意味だった。
「海のむこうには何があるの。」
 黙ったままつっ立っている祖父の顔に夕日の逆光がかかったので、顔一面に彫られた

刺青(いれずみ)がどす黒く皺だらけの目尻や口もとをひきたたせた。
 太陽が自分の生まれるよりも前から世界を照らしていたかなど、ティティは考えたこと

がない。それでもアオテアロアだけは、太陽よりも確実に彼女の中に存在した。
 海の向こうにも太陽はあるのだろうか。
「海のむこうには何があるの。」
 クペがなかなか答を返してくれないので、ティティは不安にかられてもう一度同じこと

を尋ねた。その答を聞かないうちは、自分の中のアオテアロアが壊れてしまいそうになっ

た。
 老祖父はなおも夕なぐ海を見つづけた。海の恵み。島のぬくもり。丘に咲くアヤメやユ

リといった小ぎれいな花たちの匂い。波の合い間を蹴って滑空するトビウオを銀色の(うろこ)

――こういったものをクペは美しいと思ったことがない。いや、生活がたちこめるこれら

のものを、むしろ煩わしいものの範ちゅうに入れていた。
 しかし太陽、今も自分の刺青(いれずみ)をじりじりと焼きつくすこの灼熱には、ひきつけを起こす

ような畏怖と狂おしいまでの憧憬がこびりついていた。
 三十年も前、自分が長く遠い航海に出ようとするまでは、海の向こうに何があるかなど

まるで知らなかった。クペにとって水平線の彼方は、何も見えない暗黒だった。うっすら

と空のまにまに写る夕映えの裏側は闇であって、そこにはあの太陽さえないのかも知れな

かった。
 それでもそこに知識は存在しているだろう、とクペは思っていた。クペにとって海の向

こうは知識そのものだったのだ。その知識は外海に出ない限りは永遠に得られないものだ

った。
 クペは生まれつき焦燥というものを覚えたことのない人間だったが、知識への欲求を自

分の中に見いだしたとき、「これが皆なが言うところのあせりというものか」と初めて実

感した。
 のちのちの運命が与えてくれたこととはいえ、知識に邂逅することができたということ

をクペは神に感謝した。その時になって海の向こうにも夜があって昼があることを知った

のだ。
 太陽はやっぱりそこにもあった。しかし知識が見えるのは、太陽が外界を明るくしてく

れる時だけだった。そこでクペはこの光明こそ知識と呼ぶようになり、しまいには太陽の

ことを知識と称するようになった。
 海の上では、太陽は命だった。夜でも方向を示してくれる天体の運行や、航行のための

原動力を与えてくれる風向きでさえも、すべて太陽が操っているような気がした。
 いつしかクペは太陽を憧れるようになり、それがゆえに(おび)えるようになった。時として

太陽はクペを裏切ったからだ。その度に死を意味する警鐘が、全身を凍らせた。
「海のむこうには・・・・・・」
 やっとのことで喋りだした祖父の口もとを、ティティはクモの糸のように(はかな)いものとし

て見た。繊細で透きとおった糸に獲物が捕まるみたいに、少女の不安もクペの口から出て

くる言葉にからまってしまうのではないかと疑った。
「海のむこうには、昼があって、夜があって、そしておじいちゃんの生まれた島があるん

だよ。」
 ティティはほっとしてそれを聞いた。太陽がそこにあることで、自分の美しいアオテア

ロアも救われたからだ。
 笑顔を見せる孫の両頬にクペは接吻をした。浮きたつ()くぼ(、、)の柔和さがいと惜しかった。

そこには孫や息子に投入した愛情とはひと味違った、憐憫(れんびん)に近いものがあった。いや、ひ

ょっとしたらクペは、ティティを可愛いと思ったのではなく、自分の老いに同情しただけ

なのかも知れない。
 幼児の肌は、痛々しいくらいに芳香な蜜で覆われていた。



   *


 ――時は逆のぼる・・・・・・
 ・・・・・・クペとアオテアロアはちょうど「連婚の儀」の最中にあった。これは彼らの島

アティウに古くからある慣習で、結婚を間近にひかえた男女が、互いに相手とは離れて共

同生活を送ることだった。
 いくらかの例外を除いては、決まって男女は四人ずつ二組に分けられる。男二人と女二

人の一組が二つ編成されて、なおかつ自分の許嫁(いいなづけ)は必ずもう片方の組に入るよう、割り

振りされるのだ。
 こうしてこの儀礼が明けるまでの期間は、各人が許嫁(いいなづけ)とは別居を強いられながら、常

に身近には異性が同居するという状態が続く。
 これは婚前の若者にとって一つの試練なのだ。なぜならこの期間の恋愛、性行為はいっ

さいが禁止(タプ)とされていたからであり、彼らは許嫁と会うことさえ許されていなかった。ま

してや、同居中の男女がお互いの許嫁の存在を無視して恋におちてしまうことなどは、最

も厳しい処罰に価した。
 「連婚の儀」と終えると村には新しい夫婦が四組出来た。村といっても人口が三百を少

し越える程度のものだ。実は儀礼で別居に入るときには、既に許嫁のことも同居する仲間

のことも、幼いころからよく知っている者同志なのだ。
 ところでクペが「連婚の儀」に際して、アオテアロアと一緒に住むことが村の会議で決

定されたとき、彼の戸惑いの中にはむしろ甘美なものへの期待とか、背徳というものへの

耽溺が宿っていった。
 クペは自分の許嫁を愛してはいなかったのだ。一方で愛していたアオテアロアのほうに

は、ピトアという男が将来の夫として、もう片方の組で儀礼の期間に入ることになってい

た。
 ピトアは、アオテアロアとともにクペにとっては幼なじみだった。子どものころ、海の

浅瀬で水遊びをしたり、カシの木に登って追っかけっこをしたり、洗濯するための湧水を

()みに行っては悪戯でバナナやパパイヤの実を盗んで食べたりしたものだった。
 その時からピトアとアオテアロアは村の長老たちによって既に未来の約束が成されてい

た。クペは長い間アオテアロアのことを好いていたが、いつかは自分たちの目の前に「連

婚の儀」が提示されるということについては全く無頓着だった。しかし、そのための日取

りは確実に迫りつつあったのだ。
 恋愛は自分そのものを(さいな)む一大事であって、アオテアロアへの執着心は捨てることがで

きないことを、ついにクペは悔悟した。
 おりしもアオテアロアと同時期に、しかも同じ組で儀礼に入ることを知らされたとき、

クペの予感は狂喜じみた(もう)(きん)が迷いこんだように高なった。禁止(タプ)が解かれるまでの日数を、

アオテアロアと同じ場所で息を交わすことができるのならば、きっとかねてから企てた秘
事を打ちあける機会がまわってくるに違いない!

 ・・・・・・思えばそのような妄想とともに開始された「連婚の儀」だったが、さて、いざ

共同生活に入ってしまうと、仲々好機は訪れないものだった。
 男は料理に関するいっさいを任される。石焼き(ウム)に使われる質の良い石選びや食材の確保

のための家畜の飼育、バナナの葉は食物を保存したり、食べるときの皿にするためには必

需だったので、いつでも集めておかなければならない。
 椰子の実から絞りとった汁も重要な味付けになる。この汁は絶やすわけにはいかないの

で、家では椰子の果肉を削る音が休む間もなく響いた。
 女たちはそうじ洗濯と編み物にいそしむ。パンダナスの葉を採って運んできては、軒先

にそれらを並べて敷く。二日も放っておくと葉は乾燥して緑素を失い、(わら)の色になる。こ

れを縦横に編んだものは茣蓙(ござ)になったり、やがて建てるべき新居の壁になったりする。
 または椰子の葉を編んで(かご)をつくる。そして腰巻きの材料にもなるタパ布を叩く。この

布は、紙状の繊維質を帯びた植物の内側の皮を水で柔らかくして、()(づち)で叩きながら広げ

てつくるものだ。
 これらの作業は彼らが新居を構えたのちの、絶対的な役割分担だった。そしてこのしきた

りはクペたちが生まれる前から運命づけられた、(よろい)になるはずだった。
 儀礼に入ってから六日が過ぎたある晩、ようやくクぺに幸運がまわって来た。その日が

新月であったことをクペはありがたく思った。闇が祝杯をかざして彼に加担したのだ。し

かしそれは同時に足もとのおぼつかない不安をともなっていた。クぺには世界を照らして、

あらゆるものをまざまざと理解させる太陽、新しい知識が必要だった。
 「話があるからすぐそこの木陰まで来てくれないか。」
 毎夜のオロ(がみ)へのお祈りを済ませたあと、クペは小用を足すようなそぶりでそっとアオ

テアロアに近よってから、こう言った。
 アオテアロアはまず村人たちの監視の目を危ぶんで片方の眉をつり上げたが、次には観

念したように(うなず)いた。儀礼に入ったその日から、彼女は常にクぺが自分に当てる視線を

意識していた。そして、いつかはこの瞬間が唐突に現れることを覚悟していたのだった。
 同居する残りの男女の目を盗むことは難しかったが、どうにか家を抜けだして、先まわ

りのクぺが待つ木陰に向かおうとアオテアロアは工面した。彼女はこの時、既に自分が

(おきて)破りの身になるつもりでいたのだ。しまいには、洗濯ものをとり込む口実を無理につ

くってから、(かご)を持って戸外を忍びあるき、やがてクぺの前にすべり込んだ。月がない、

星の明かりだけが頼りでは、ほとんど盲目のさまよい歩きに近かった。
 「てっとり早く打ち明けたい。僕といっしょに逃げてもらいたい。」
「どこへ。どこか別の島へ?無理だわ。」
「どうしてだい。今までだって『連婚の儀』を済ませないうちにかけ(、、)落ち(、、)した若者は腐

るほどいた。」

「成功した人たちの話はあまり聞かないわ。皆な殺されたり、別の島でも迫害を受けたり。」
「その通りだ。僕の行こうとしているのはそこらへんの島じゃない。あの(、、)()だ。」
「まさか!クペ、本気なの。」
「静かにしてくれ。」
 当然のことながら、二人は声を低くしてできるだけ手短かに喋らなければならなかった。

さもなければ家に残した男女にすぐ勘づかれてしまう。
「あんなの、ただの伝説よ。()()()なんて存在しないのよ。」
「僕には確信があるんだ。古来、祖先たちは何度となく()()()を目ざした。中にはそのま

ま帰ってこなかった連中もいる。その人たちは、そういうことなんだ。つまり()()()を見

つけて移り住んだんだよ。」
「随分と短慮なものね。でも、そう。・・・・・・そのせっかちに同伴しましょう。」
「それじゃぁ、いいんだね、そういうことで。」
「もうここであなたと話してること事体、規則に反してるのよ。こうなれば、あとはもう

賭けてみるしかないじゃないの。」

 クペとアオテアロアは抱きあった。まるで崩れおちる岩を支えあうように。その岩が、

これからは二人の人生となり、新天地の(いしずえ)にもなるような気になった。
「明日、丘を越えてピトアに会いに行く。」
「やめて、クペ。これはもう私たちだけの問題だわ。ピトアは全く関係ないじゃないの。」
「仮にもピトアは君の許嫁なんだぞ。何も話さないで立ち去るわけには行かない。」
「お願いクペ、その必要はないわ。あたし、昔から彼のことがよく分からないのよ。何か

心のうちで悪いことを隠しながらうそぶいているようで。」
「大丈夫だ。どっちにしろ脱出は長い航海がともなう。僕たちだけじゃとてもできること

じゃない。手助けが必要なんだ。」
 顔を近づけたとき、アオテアロアが目をつぶったので、そのままクペは彼女の唇に接吻

をした。暗闇の中で、どうして相手が目のつぶったことを感知したのかときかれれば、ク

ペは分からない。ただ二人のそばを一条の蛍が通ったようにクペには見えた。その蛍の光

は、女らしく成長してきり立ったアオテアロアの(まつげ)を美しく際だたせ、さらには若さに

色めく口もとを(つや)めかせてから消えた。クペは自分たちの行くてを導いてくれるために、

その蛍が出没したのだと思った。

 アオテアロアは幼いころ一度だけクペと唇を合わせたことがあったのを思いだした。あ

れには不器用なもの真似、そうあの冗談めいた遊戯にこそ純朴な後ろめたさがあったので

あって、今のこの吐息の生あたたかさには、偽物の躍動感はあっても、良心から昇ってく

る罪悪感のかけらもないことに気づいた。
 いやむしろそう思うことが自分を正当化させる手段なのであって、本能的にクペの接吻

を受けいれてしまったことでさえ、今は許され得る何かを口もとから心へとつめ込まれて

いるような気になった。
 「分かってくれ、アロア。船を手に入れるにはどうしてもピトアの協力を得なければな

らない。」
「分かったわ。でもあの人には本当に気をつけて。それから・・・・・・丘越えはそれだけで

も命がけよ。村人の目をごまかすには雑草をかき分けて行かなければならないわ。」――
 ・・・・・・次の日、豚の放し飼いの面倒を見るようなふりで姿を(くら)ませたクペは、ほとん

ど神業的に丘越えに成功した。監視の目を盗んで行動するには、ほとんど獣道(けものみち)ともつか

ないような繁みを刀で切りこみながら進まなければならなかったのだ。

 

 

   *

 クペの申し出に対し、幼なじみのピトアは思いのほか寛大な了見で承知した。村の実力

者の子息でもあるピトアは、許嫁(いいなづけ)のアオテアロアを手ばなすことを快く受諾するばかり

か、クペへの助力を惜しみなく与えることを約束し、さらに自らも脱出計画の参同に名乗

りを上げてきたのだ。
 もとよりクペにはピトアの同行を断るすべもなく、船を手にいれるにはピトア以上の理

想的な共犯者はあり得なかったので、二つ返事でその条件を呑んだのだった。
 ところでピトアという男はクペのように野心家ではあったが、自分が野心家であること

に気づいていないぶん、クペとは性質を異にした。
 この男の野心は、鳥籠の中にこもったオウムだった。ピトアはそれを自分の中で飼って

いるなどとはまるで自覚していない。しかしこのオウムは孤独という餌をもらってどんど

ん成長しているのだ。
 ピトアはクペのように多くの友だちを持ってはいなかった。しかし「絆」とか「友情」

とか、島の若者が好みそうな言葉を上手に並べては饒舌に語るのを得意としていた。思え

ばこの饒舌こそ、オウムの餌となる孤独を構築していたのではないか。
 案の定、うまいこと口車に乗せられた隣り村の長老などは、数ヶ月単位の船旅が可能な

双頭船(そうとうせん)をピトアに提供し、冒険欲に飢えた島の男女数人も彼らと同じく渡航の仲間に加わ

ることになった。ここまでの準備を、「連婚の儀」が明けるまでの数日間でやってのけて

しまったのだから、実力者の子息という利点を差しひいたにしても、ピトアという男がい

かにしたたか(、、、、)さを多分に秘めていたかが窺える。
 彼らは早速食糧となるための家畜として豚と鶏を、タロ芋やサツマイモといった長持ち

をする主食を、「ポイポイ」と呼ばれるパンの実を発酵させた保存食を、生命の砦となる

椰子の実を、どっさり船の上に運んだ。
 船上からの漁によって食べものの確保を望むようでは安定した航行は期待できない。

日々の移動距離が長いこと、それが大前提であって、漁によって遠まわりを優先させるの

は、本来の目的を逸することになる。
 さて、クペとアオテアロア、そしてピトアにとっては儀礼が明けることになっていた、

その日の早朝に、人目を避けるには絶好な隣り村の岬の陰に隠れた()(とう)から、彼らは他六

人の仲間をひき連れて出航した。この乗組員たちは互いに違う村の出身だったが、子ども

のころから顔と名を覚えている同志だった。


 目ざしたのは西南の海だ。かつてあの(、、)()を見てきたと言った彼らの祖先も、確かにその

方角へ向かったと伝えられていた。朝日は船のあとを追うように島の斜面から昇った。朝

焼けが黒い()()を延ばして、彼らを背中から両手でつつみ込んでいるようだった。
 操舵の指揮はピトアがとることになっていた。豚の皮で出来た帆とカシの木を帆柱にし

双頭船(そうとうせん)は、朝風をよく(はら)んで海面を滑りだした。
 船は二つの胴体が一つの股板(またいた)によってつながり、あたかも二つの首を持った野獣のよう

な形を成している。股板の部分にはピトアが乗り、風を読んでは左右の胴体の内側で帆か

ら延びた縄を引く乗組員に指示を与える。
「よしいいか。ここから(しょう)を越えて外海に出るのが第一の関門だ。皆なもよく分かって

いるだろう。とりあえず右舷に進め。あそこにわりと深めの(しょう)の切れ間がある。そこな

らこの船だって抜けられるはずだ。そしてもう一つ!早起きの村人はもう眠りから覚めて

いる。我々は必ず目撃されるはずだ。追手がついてくるのを逃れるには一回で礁越えを成

功させなければならない。失敗は大罪で捕まることを意味するぞ。皆な、顔じゅうを刺青

で彫られたいか?一生一人もので過ごしたいか?せっかくの機会を俺が恵んでやったんだ、

俺の厚意を無駄にするな。よし、行けっ。風向き変わらず東南東!」
 ピトアがそう叫ぶなり、海岸から()()(がい)の吹く音が聞こえた。その音の長短の並びが

「村に違反者が出た」ことを告げている。彼らの脱出が見つかったわけだが、これは予定

していたことなので、クペとアオテアロアにしても、それほどの動揺はなかった。
 今は座礁を回避することだけに気持ちを集中させなければならない。浜のほうでは、あ

わててカヌーを引きずる村人たちの姿がちらりと写る。とりあえずカヌーで追ってこよう

というのだ。
 外海と礁のふち(、、)との境には必ず海中のサンゴが盛りあがった部分があり、水深がいきな

り浅くなる。カヌーならば()易く抜けられるが、双頭船ともなると、サンゴの突先は必ず

船底に刺さって沈没を余儀なくされる。
 しかしクペたちは日ごろの漁の経験から、ピトアの言う、礁の切れ目がある場所を知っ

ていた。しかも前の日のうちから目印にできるよう、一本の潅木をあらかじめそこに立て

ておいたのだ。
 ピトアの命に従って、双頭船は難なく外海へと擦りぬけた。透明な浅瀬の海は藍と(みどり)

の濃い色がおり混ざる深海に変身し、船は大洋の波を初めて身にうけて、揺らぎながら豪

快に進みだした。
 もはやカヌーは彼らを追ってこない。今ごろは村の中で、逃げだしたのが誰なのかを点

呼しまわっているところだろう。クペたちの村へも、島を抜けだした者がいないか、使者

が走ったことだろう。
 双頭船はなおも西南に舵をとって波を縫った。間もなくアティウの島が水平線に消えて

なくなる。このあたりまではカツオの一本釣をしによくクペたちもやって来る。しかしこ

の先は、まるで「明るくない」場所であり、太陽だけが彼らの知ることができる、すべて

の源となる。
 島が完全に見えなくなったとき、彼らは泣いた。自分が根を生やしていた土地を失うこ

とは両足をもぎ取られるくらいの悲痛があったからだ。
 彼らの手や(からだ)はすでにたちこめる飛沫(しぶき)で塩水にまみれていた。そこを太陽光線が容赦

なく、ひりひりと打ちつける。慣れているはずのこの照りつけに、クペたちはしびれあが

った。そしてひたすらもがいた。思えばこれは彼らの不安が蒸しだした苦しみだったのだ。

その息がつまるような恐怖は、オロ(がみ)への崇拝を呼びだした。まわりの景色を見まわして

も、神の創造物である空と海と雲が(どう)(もう)に船を揺るがしているだけだった。

特に海・・・・・・この冷たい色を生みだし、今にも自分たちを船ごと呑みこんで行きそうな

化け物に、彼らは(おび)えずにはいられなかった。
 だがしかし、これからしばらくは船が彼らの島になるのだ。二十歩も歩いたら端から端

まで辿りついてしまうような木材の上が、全生活圏となるのだ。再び根を生やすには何と

不安定な島だろう。
 いや、新しく自分の足を植えこむことができるあの(、、)()を探しあてるまでは、このままで

も我慢したほうが賢明なのかも知れない。さもないと、今度はこの船に執着したまま本当

の島に上陸することを躊躇してしまうだろう。再び流す愛惜の涙とともに――
 ・・・・・・初めての夜になった。太陽は目的地の方角とほぼ同じ箇所に沈んで、残り火だけ

を空間に漂わせた。それからはちらほらと現れだした天体だけが頼りになる。この恒星や

遊星や衛生たちも、微妙なずれ(、、)でからまりながら、規則性をもって天空を駆けていること

を彼らは知っていた。しかし、だからといって次の日また東の空に曙が顔を出してくれる

などという保証がどこにあるだろう!現にクペやピトアにとって、そこはもう無知の世界

だった。
 本物の地獄はこれからだったのだ。
 空間が暗闇で覆われ、寒さが全身を襲ってきたとき、彼らは絶えられず身もだえした。

軀は常に波の飛沫(しぶき)に濡れ、乾くことがない。そこに通った風が、たとえ(かす)かなものであっ

ても、彼らの体温は根こそぎ略奪された。かじかむ手が融通のきかないものになり、口も

との震えがとまらずに、あたりからはガチガチと奥歯の当たる音がする。
 男は伝統的に上半身が裸なのでまだいい。濡れた衣服に吹く風は体じゅうの熱を余計に

うばい去る。アオテアロアをはじめ、残り三人の女たちは、夜の間だけ全裸にならなけれ

ば、熱帯の洋上で凍死してしまうのではないかと思われた。果たして彼女たちは身につけ

ていた衣服をすべて脱いだ。男たちの間でも、寒さでたまらなくなった者は、最後の一枚

の腰巻きさえとってしまったほどだ。
 ピトアはなおも股板の上で音頭をとったが、その声は狼狽でかけ声というよりは()(えつ)

近いものになった。妙に信心深いところがあるこの男は、自分が悪霊に魂を抜きとられた

ように錯覚した。その時、乗組員はすべて凍りつき、全身の感覚を失っていた。
 三百六十度を十六に分割し、あらゆる方角から吹く風に名前をつけるといった、昔から

伝わる彼らの航海術も、そこでは何も功を奏さなかった。



   *

 

 暁は、やがて彼らが朝と呼ぶころ、必ず来訪してくれるものになった。太陽が威光を放

ちはじめると、ようやくクペたちの濡れてこわばった五体を乾かしてくれる。この時、彼

らは寒さから解放されるのだ。
 次に迫りくるのは激烈な睡魔だった。夜という夜の間はほとんど眠ることができなかっ

たために、アオテアロアも、昼間さえ太陽が隠れてしまうことを敏感に恐れた。そして朝

になれば、そこに現れた優しい日ざしとともに添寝することが、既にこの何十日かの習慣

だっだ。
 彼らは遅い食事を摂り、昼寝するまでの時間は運航を続ける。昼寝が済むと日没までの

時間で今度は重い食事の仕度に入る。たそがれ時に一日の最も重い食事をもってきたのは、

徹夜の航行の腹ごしらえをするためだ。
 こうして夜に移動距離のほとんどを稼いでしまおうというのは、ピトアのたてた苦肉の

策だった。どうせなら眠ることのできない夜を活用しよう、というのだ。
 しかし、何十日航行を続けても、なかなか新しい島、彼らの祖先が言うところのあの(、、)()

は、幻影にさえ現れる徴候がなかった。
 来る日も来る日も海の上にあるのは自分たちの双頭船だけだった。それでも彼らは絶え

ず海を見つづけた。特に彼らの目が追ったのは、雲の動向だった。島の影というものは、

どんなに目の利く者が凝視しても、決して見つけられるものではない。ところが島という

のは、必ず水蒸気を発散するために、そこからとめどもなく積乱雲が放出されることを、

クペたちは漁民の知恵として備えていた。
 彼らは雲が流線を描いて噴出する箇所を水平線上に見いだそうと必死だった。
 故郷の島アティウを離れてどれだけたったか、正確に日数をかぞえていた者はいなかっ

たが万一のことも考慮して、彼らには帰るだけの用意もあった。出航前に食糧のうち半分

がつきても、雲が彼方に示す福音を認められなかった場合は、その時は帆を翻して元に引

きかえすことを、彼らは最初から決めていた。
 ただし、アティウに戻るのではない。アティウのまわりの群島の一つに、原住民との和

解が得られない場合は、戦争も辞さない覚悟で戻るのだ。
 ついに食糧の半分を食いつくしてしまう日が来た。クペとアオテアロアはもう一日だけ

進んでみることをピトアに提案したものの、ピトアのほうで弱腰なところを呈したので、

双頭船はまるで一日動かずに、洋上で無駄な時間を過ごしてしまった。彼らはほんの慰み

石焼き(ウム)料理ができる木版と石と砂とを携帯したが、それらはすでに炭や()()がかかって、

捨てなければならないほど使いふるしていた。
 日が暮れると雨が降りだしたが、これが悪運めいた兆しになった。しばらくたってから、

西から東に向かってまっすぐ突風が吹いたとき、一同は恐ろしい虫の知らせに戦慄した。

誰も口にしようとはしないが、それは台風が近いことを意味したのだ。
「見ろ!だから俺は昨日のうちに引き返そうと言ったのだ。そしたらこの嵐をのがれたか

も知れないのに、何という事だ。」
「何もまだ船が転覆すると決まったわけじゃない。嵐はこの船をかすめて通るだけかも知

れない。信じて進めばいいんだ。」
「二人ともケンカはやめるのよ。」
 クペとピトアの口論にアオテアロアが割って入った。
「それじゃお前の勝手にしろ、クペ!俺はおりる。」
 股板を降りてきたピトアに替わって、クペは指揮台の上におどり立った。もっとも船の

揺れはすでに厳しく、そういった船上の立居さえ腰がくだけるかと思うほど困難だった。

クペはぐっと脚を折りまげ、姿勢を低くしてふんばり、帆柱にしがみついた。
 その時だ。彼がまた一条の蛍を発見したのは。波が一瞬だけ穏やかになった。
「左舷だ。俺の言う通りに舵をとれ。」
 クペは光に導かれるまま操舵の指示を与えた。雲がかかっていては方角がつかめない。

天体が隠れてしまって、当てずっぽうの進路をとるしかないのだ。しかし、これほど確信

に満ちた闇雲(やみくも)があっただろうか。
 今、蛍は彼の知識と線を結んだ。クペはこの時、小さな太陽をこの浮遊する生物の中に

見たのだ。それは背筋が凍るような夜の拷問から顕現した、かすかな希望だった。
 そのようなことを考えながら、前にその蛍を見たのがアオテアロアと接吻した時だった

ことをクペは想いだした。このちっぽけな、遠くから見る漁火(いさりび)のような光は、やっぱり太

陽のまわし物だったに違いない。それはクペにしか見ることのできない松明(たいまつ)だったからだ。
 雨はいつしか止んでいた。台風は彼らが危惧した道すじを通らずに、そのまま東の空に

抜けていったようだった。雲はまだ残っていたが、星もちらほらと、霞む夜空を通してい

くつか輝きを見せはじめた。
 クペが眺めていた蛍はふわりふわりと揺れてまだしばらく()()()()()いたようだったが、

ついに彼の頬もとで火花をちらつかせたかと思うと突然遥か後方に消えてなくなった。奇

妙なキナ臭さだけを残して。クペはそれを故郷の島に後ろ髪を引かれるような思いで見守

った。そして一抹の不安におののいたのだ。
 この消滅は太陽が啓示する最も偉大な裏切りではないのか?たとえば今すぎ去ったばか

りの台風が軌道を変えて戻ってくるといったような・・・・・・。やはり自分たちは引きかえ

すべきだったのか!
 「おい、あそこを見ろ!南南西。」
「ほんとだ。俺の目がボケているわけじゃないだろうな。」
 にわかに船上がざわめきたった。彼らは左手の水平線上に雲の動きの異常を見てとった

のだ。いや、それは異常ではなく幸福な知らせだった。空間にのさばっていた雲が初めて

へつらい、双頭船の前で忠誠心をむき出した。

 やがて朝焼けがはり出したが、それは(まさ)しくさっきクペの蛍が姿を隠した場所を基点に、

煌々(こうこう)とした()()帳を海の向こうに繰りひろげるのだった。黒ずんだ細かい波がヒスイやコ

ハクの色に染められ、黄金の鏡をしつらえた海面の彼方に、果物の種粒ほどに()細い島の

影がくっきりと反射されていた。
 「見つけたぞ!あれが俺たちの新しい島だ。」
喚声があがったのも束の間、乗組員たちは最後の奮起のために力のこもった手で縄を握り

なおした。ところがピトアだけは心なしか落ちつかない様子だった。
 彼らは今や目標を持って進むことができた。帆を操る組と、櫂をかき回す組に分かれ、

黙々と船を漕いで目ざす島へと急いだ。誰もが無口になり、真剣に航行に打ちこんだ。下

手をすると、その日のうちに上陸することが難しくなってしまうのだ。
 島の形がおし寄せて来るにつれ、クペたちは息を飲んだ。それがまるで生まれてこの方、

見たことがないほど巨大な島だったからだ。アティウの百倍、いや千倍の面積はありそう

だった。
 粗く削られた岩浜が目に入り、その上部ではきり立った斜面いっぱいにうっそうと繁っ

た森がある。丘といってもどれもが今まで見たどの丘よりも高い。これが話には聞いてい

た「山」というものなのだろう。
 そこには(おびただ)しい植物が生息し、そのうちの半分以上は初めて拝む(しゅ)であることが遠目

でも分かる。尾根から山の側面にせり出した岬が一つ、二つと重なり、そのまた向こうへ

と続いて切れ目がはっきりしない。島は途ぎれることなく永遠に海の果てまで延びていき

そうだった。
 今ここに上陸しようとする自分たちが紛れもなく存在する。この触れてはならない、(しび)

れをもよおす怪物に近づこうとする自分たちが・・・・・・。
 だんだんとくっきりしてくる岩肌の明暗が牙をむき出して船を吸いこもうとしているよ

うだ。真に島というのは吐き気をさそう魔物なのだ。それは島の持つ磁力が、我々の内臓

をえぐり取ろうとするために起こる吐き気だ。
 言葉を失った乗組員の中から一人、二人と歌がこぼれ、しまいには皆なでそれを合唱す

るようになった。それはオロ(がみ)に捧げる詩、怒り狂う神を(なだ)めるという意図がこめられた、

創造物への賛歌だった。およそこれほど大きな人の住める土地があろうとは、クペでもお

もい描けなかった。
 そしてアオテアロアは・・・・・・クペはふとアオテアロアの姿がないことに気づいた。
 「おい、ピトアがいないぞ。アオテアロアもだ。」
「あっ、いま誰か海に落ちたぞ。見ろ、あそこだ!」
クぺが船体からはい出して海面を見おろすと、信じられない光景か目に飛びこんだ。ずぶ

濡れのピトアとアオテアロアが小型(いかだ)に乗って荒ぶる波の上で揺らいでいたのだ。
 「残念だったな、クペ!このアオテアロアを渡すわけには行かない。これは俺の妻なん

だからな。お前もさぞかしぬか喜びだろうよ。せっかく純潔を守っていたというのに、こ

んなにもうまいこと策略にはめられてしまうんだからな。言っておくが俺たちを追ってこ

ようなどと無謀なことはするな。そっちの船はこの(いかだ)のようにどの海岸にでも漂着でき

るわけじゃないんだからな。」
 ――ピトアの高笑いが潮騒に消えていった。



   *


 双頭船はサンゴ礁の海岸に辿りつき、クペたちはそこの白砂に居を構えた。ピトアと

アオテアロアのことは最後まで追跡できなかったが、二人は裏の岬の陰に逃げていった。

見当だけだと、尾根をひとつ隔てた向こうの山林に棲息しているように思われた。ピトア

(はか)りごとなど、クペにとってはとるに足りないことだった。問題はアオテアロアの本心

であって、もし彼女がピトアのやり方をすべて理解した上で向こうに寝がえったのならば、

それは耐えがたい屈辱になった。
 クペは知識とひき替えに愛する女を失ったのだ。
 その女の真意が、今では混沌となり、ほとばしる溶岩のようにクペの猜疑心を熱くかき

乱した。あの闇夜の接吻の、何と(はかな)い誓い。それはあの時現れた蛍と、何のつながりも

なかったのか。果たしてあの甘い舌ざわりは、ただの幻だったのか。クペは自分がアオテ

アロアと接吻したことでさえ懐疑した。
 「クペ、俺たちのことを不審に思っているんだろう。」
仲間の一人が考えに耽けこむクペに声をかけた。
「言っとくけど、今度のことはピトアの単独行動だ。俺たちはぐる(、、)じゃない。でないと見す

見すあの二人を海に逃すわけないじゃないか、信じてくれよ。」
「もちろんさ。」

 それから女三人を除いた男たちだけが四人とも一つの小屋に集まり、閉ざされた戸の中

からは一晩じゅう男たちのわめき声が外まで響いた。
 覚悟というものは余りにもつまらないものなのかも知れない。そのつまらなさに大いな

る勇気の所有を確かめあうこと、それが彼らの仲間意識を強くする。
 次の日の朝、小屋から出てきた男たちの顔を見て、今や彼らの妻となった女たちは仰天

し、そろって悲鳴をあげた。
 クペをはじめ、夫たちの顔が一面幾何学模様の刺青で彫られていたからだ。これはもと

もと彼らが「連婚の儀」を破った罪人に与える処罰だった。自ら自分たちにこの厳罰をほ

どこすことによって、クペたちの団結力はいっそう高まった。
 「やっぱり一人で行くのかい、クペ。」
「あぁ、これはもともと俺がおっぱじめたことだ。俺がこの手で片をつけに行くよ。」
「生きて帰ってこい。無事彼女を連れもどして来たら英雄として迎えてやろう。」
「馬鹿言うな。そう呼ばれるにはまだ早いさ。」
 クペは刀を持って山に入った。ピトアを討つために、いや正しくはアオテアロアがピト

アに対してどんな義理があったのかを確かめるために。
 新しい島の気候はクペたちにとって、かなり冷たいものだった。これまでのように半裸

でいられるわけもなく、猟で捕まえた奇妙な鶏の羽毛を豚の皮につめ込み、胴着としてそ

れを(まと)った。その鶏は島の巨大さに比例するように、彼らの身長の倍ほどもあったが、彼

らが鶏を指すときと同じ名、つまり「モア」と呼ばれるようになった。
 「モア」の羽毛はのちに冠や腰巻きの装飾にも使われるようになり、その肉は食用とし

て彼らの貴重な蛋白(たんぱく)源になった。
 クペは太陽の光を大きく遮る森の繁みの中をなおも進んだ。足もとには湿っぽいコケ類

があり、これが地面を滑りやすくしている。さらに連れだって生えそろうシダ類などは、

何の同情もなくクペの足どりの邪魔をする。幹の太い針葉樹のたぐい、怪しい色の花を咲

かせる潅木たち・・・・・・これらは、ほとんどが初めて見る植物なのだ。たまに故郷の島に

もあったような椰子だとか、沼地に群生するマングローブの種などを見つけたりすると、

つい和んだ気分になるのだった。
 クペは人が生活していた形跡を探して、森の中をさまよった。一つだけわりと大きな(くりや)
のあとを見つけたが、焼き石の風化具合、残留されていた椰子の実の殻の焦げ跡から、数

十年、いやひょっとしたらそれよりも遥か昔のものであることが分かった。炉のつくり方

からして、それはこの島に渡ってきた祖先たちの遺物に違いなかった。そしてその子孫た

ちが確かに、島のどこかで生きながらえているはずなのだ。
 ある時クペは木洩れ日のあたる場所で、消したばかりの焼き石のひと固まりを発見した。

まだ煙の残りがたっているのを見るに、「近い」と即座に察知し、身をかがめてあたりの

気配を窺った。
 クペは動く人影がないか、繁みという繁みのあい間を見まわした。するとわずかな明る

みを通して髪の長い女の半身が映り、その主がアオテアロアであることに気づくと、我を

忘れて疾走していた。
 アオテアロアはふいにカサカサという葉と葉がこすれて鳴る音に動揺すると、振りむい

た先から自分に迫ってくる野人に面くらうまま身動きできずに助けを呼んだ。

「ピトア〜!」

 クペの背後から待ちかまえていたピトアが現れ、刀を振りかぶる。ピトアが振りおろし

た一撃を、クペは向きなおった瞬間に額に浴びてしまった。しかし、傷は浅かった。
 むしろ飛びちった血が逆にピトアをひるませた。クペは機転をきかせて握った地面の石

ころを敵の顔にぶちまけた。
 ピトアは両手で痛手を負った鼻頭を覆ってよろめく。石ころは思いのほか急所をついて

いたのだ。すかさずクペは歯型の木刀を持ちなおすと、体をかがめたままのピトアの(うなじ)

見さだめて力まかせに打ちおろした。
 刀はそのまま頸部にめり込み、ピトアは即死した。
 アオテアロアは放心したまましばらく崩れおちたピトアの屍と息をあらげる野人の姿を

眺めていたが、顔が刺青だらけのその野人が実はクぺであることに間もなく気づいた。
「クペ・・・・・・あなた、クペなのね。」
 クペは顔からしたたる血の膜を通して、近よるアオテアロアの目をまじまじと見た。

その目はどこからか聞こえてくる、あの滝の音、そこではじける清らかな水のようだった。

クペは純真さで(みなぎ)るアオテアロアの目から、不思議な(いこ)いを見つけた。激しく水面を打

ちつける滝の水が、やがてなだらかな川下へと流れていくように、顔の傷もまた癒され、

痛みがやさしい水で(ぬぐ)われているようだった。
 もうアオテアロアのことは許すしかなかったのだ。そしてかねてから言うべきであって、

言えなかった言葉をここで口にした。
「いっしょに皆なの所へ戻ろう。そして俺の妻となることを約束して欲しい。」
 アオテアロアは答えに戸惑った。どう弁解したところで、クぺが自分にかける疑いを晴

らすことはできないだろう。今にして思えばピトアが自分を連れさらったこと、目が醒め

たらとてつもなく巨大な樹海にピトアと二人で居たこと、ある時突然姿を現したクペの顔

が刺青で埋まっていたこと・・・・・・
 すべてが整理のつかない諸事だった。そしてばらばらになったこれらの破片をまとめよ

うとして、彼女は首を縦に振ったのだった。
 しかし、にわかに伝えておかなければならない重大なことを思いだすと、アオテアロア

はクペの腕をつかんでからこう叫んだ。
「聞いてクペ!この島にはあたしたちの他にまだ住んでいる人たちが居るわ!」
「あぁ、俺がここに来るまでにもいくつかその証拠を見たよ。本当の戦いはこれからだ。」
クペはそう言って(うなず)きながらアオテアロアの手を引いた――。
 蛍はついにクペの目の前には現れなかった。しかし、何も頼ることなく敵を討つことが

できた今となっては、いっさいの導きなどを必要としていない自分がそこにあるだけだっ

た。これからは偽物の太陽のかけらなどを欲しなくても済む。代償となった額の傷の(うず)

こそクペの自信、その傷をいたわって布をあてている隣りの妻こそ求めていた光にもなる

だろう。
 一方でアオテアロアはクペの鮮血が湧きたつ傷口と顔じゅうの刺青の中にうつろう輝き

を見てとった。それは蛍の発光のようでもあり、彼女はそれを美しいと思った。クペはそ

れに気づいていないが、今やクペは確実にそれを所有していたのだ。そしていつしかその

感覚を潤すようなこぼれる美しさが彼女にのり移り、クペの子ども、ひいては孫にまで伝

わっていったに違いない。
 「あたしがまだ処女かどうか、きかないのね。」
「お前が俺の刺青について、きかない限りはね。」――

 

 ・・・・・・それから数年後、クペは仲間たちとともに島全体を統一し、そこに英雄伝説を

つくった。
 「アオテアロア」と名付けられた彼らの島、それが数百年後ヨーロッパ人たちによって

「ニュージーランド」と呼ばれるようになるなど、誰が予想しただろう。
           

                              〈臨島・終〉

                                       
                                Copyright©Keita.2001